解体翌日

解体後、地主達は社会復帰のために、GHQ収容施設での共同生活を約1週間にわたり行い、小姓からの上納以外の手段での生活に適合しうる知恵と勇気と体力を身につけていくことになる。
翌日からいきなり、食堂までの自力歩行訓練があり、盛大で美味なる料理を振舞われる。
この食事と歩行が、社会復帰への第一歩となる。しかし多くの地主たちは、昨日接収された、土地への思いが強く、心も体も痛みでビンビンに震え上がるため、すかさず衛生兵からは、大量の薬物が手渡される。
切り取られた土地への止血薬(3種)、新しく与えられる食物になじむための整腸薬(1種)、そして事もあろうにせっかく摂取した食物を排出するための下剤少々(1種)、そしてこれら薬物で急激に痛めつけられる胃を守る胃薬(1種)。これらを毎食後に摂取させられ、さらに朝晩には、主に切り取られた土地への思いを断ち切る、痛み止め(1種)。また初日朝だけは、更に点滴が1本。
しかも昨日の下半身麻酔への対応として、細かいものを見たり、激しい動きを目で追いかけることも控えるようにとの通達が。
朝食後の痛み止めにより、午前中は難なく過ごすも、午後になると急激に、自分の土地への愛着が高まり、感極まった挙句、たいそうな痛みが。ガス抜きもママならず。
何とか夕食まで持ちこたえ、痛み止めを摂取するも、この効き目が大体4~5時間程度とわかってくると、夜が心配。心配が高まってか、夜は7.8度まで熱が上がる。衛生兵からは寝る前にもう一度検温をとのお達しがあり、9時前には何とか6.8度まで下げる。ついでに衛生兵からは、痛み止めを1日3回までOKとのお許しをいただき、安心する。
この夜は11:30に痛みに襲われ、痛み止めに頼る情けない人となってしまった。
しかし前夜、右腕に残されていた点滴の針がないこともあり、快適に安眠をむさぼる。
解体翌日はこうして過ぎていったのだった。

GHQによる解体

農地解放の朝が来た。
朝食は、やや少なめに提供され。
その後、朝の検診。ここでいきなり、大切な農地を検分され、いきなり下剤が投入された。
15分から20分我慢してからトイレに行くことという注意事項が。
我慢を重ねるが、15分ぎりぎりでギブアップ。昨晩のご飯が流れ出ていく。そして当然のことながら私の大切な大きな地がはみ出すのを、無理やり押し込む。
その後ベッドでしばらマッタリとしていると、衛生兵(看護師)が、解体の儀式に使用する衣装一式を手渡し、小を終えたら、下着まで外したあられもない姿にその衣装をまとい、再び待ったりしているようにとの指示。その後、点滴を手に再び現れた衛生兵に、左手にブチット針を刺され、これでもう逃げることはできない。
待つこと数時間、三度現れた衛生兵に誘われ、手術室の前へ。
手術室では、別の地主がすでに解体の真っ最中。
そしていよいよ私の番に。まずは解体台の上に仰向けにされ、なんと事もあろうに大切な土地を隠していた衣装の下半分を剥ぎ取られ、すぐさま横向きにされる。そこでチクッと背中に何かが刺されたかと思うと、下半身に早くも痺れが。もうひとつ(だと思う)チクッとやられると、あとは大切な土地を含む下半身が自分のものではなくなってしまった。それででも許されず、すぐさまうつ伏せになるよう指示され、土地の周りの雑草が衛生兵によって刈り取られる。
そこにすかさず、GHQの司令官が現れ、解体開始。しかしもはや自分のものではなくなった下半身で何が起こっているのかも知る由もなく、15~20分で解体完了。
司令官が、頭上に現れ解体完了を告げる。しかも解体された土地を目の前に持ち出してきた。
その切り取られた土地の大きさに愕然。優に親指の第一関節ぐらいはありそうな最大の田がひとつ。小指の爪ぐらいの畑、更に米粒ほどの自家菜園と3つの土地が切り取られていた。
きれいな話ではないが、せっかくの体験なので、もう少し詳しく記載すると、皆さん自分のお尻の黄門様を見たことがあるだろうか。最大の田は、以前お風呂で鏡に映して見たその黄門様の土地と同じ色をしているのを妙に鮮明に覚えている。
その後は、衛生兵に再び仰向けにされ、さらに自分のベッドに移されて自室へ。
その後約3時間で下半身は、再び自分のものになったが、解体された土地はいずこへ・・・・。
よるおにぎり2個の簡単な食事を与えられ、解体の日は過ぎていったのだった。
恐るべし、GHQ司令官。
30分の解体作業をこの日は6人の地主に施した。

農地開放前夜

私は大地主(大痔主)です。親からも受け継いだ大切な地からいよいよ開放されることになりました。
もうかれこれ十数年来の地主だったのですが、この正月休みに、大酒喰らって、スキー場で散々冷やしたらとても大変なことになってしまった。
どんなに大変かって言うと、今まで内痔核というところでとまっていると思われた出っ張りが、外側も巻き込んで、まさに小姓の一揆状態で大暴れ。
ついでに言うと、今の会社の方針がこの半年で大きく変わったため、仕事に対する意欲もしぼみかけていたことから、1月7日の仕事始めの日にいきなりお休みをいただいて、やってきたわけです。
その名も西新井肛門科。単刀直入で実にわかりやすい。
そこで先生に診てもらうと、良くぞここまで我慢したね!年齢も若いからこの際バッサリいっちゃいましょうかと一言。こちらも望むところとお願いしますというと、7泊8日ねと。。。
正直 7泊8日も!? というところだったんですが、保険も利くうちにと思い切って本日入院。
ついでだから、町内(腸内)も見回ってくれるということで、二日前から食事制限、そして昨夜夕食後に下剤その1、そして朝からは腸内洗浄よろしく、大量の下剤を服用し、小姓たちも大暴れする中、町内を空にして、いざ入院。
校門かというだけあって、待合室には同志が。
今日は午後に入院手続き後、まずは町内の見回り。1mも結構太い管が町内に侵入し、町並みを見回るも、異常なしということで、晴れて明日の農地解放に向けて体を休めることに。
といっても9:30には消灯されてすることなし。
ということで、農地解放の実況中継をブログに記載することを思い立った。
明日は下半身麻酔でいよいよ開放されるので、実況はお休みですが、又気が向いたら、記録しておくことにしようと思います。
農地解放前 消灯後に記す。

レーシックを受けちゃいました。 1週間

レーシックを受けて、初めての出社。
月曜日朝から、オフィスのみんなにどうだった?と質問攻め。
ばっちり見えるよ。1週間禁酒だけどね。と話しをすると、なんと3人がその場で予約。
やっぱり混んでて、9月に検査になりました・・・と。
みんな受けたかったんだね。でもやっぱり怖いもんね。
そんなこんなで、快適な生活が始まりました。
3日目検診ということで、月曜日にクリニックに出向き、順調ですねと、お墨付き。
しかし、酒駄目ですかと聞くと、きつく1週間は駄目ですと、つれない返事。
月曜日は夕方クリニックに行った後、そのまま、大阪に出張。
宿泊出張でも、メガネ不要、コンタクトケア用品不要と荷物も楽に。
さらに、ホテルでは、ベッドの中からテレビを眺め、そのままウトウトと。
出張に行くと、メガネの時には、ベッドに入ったらそれっきりで何もできなかったから、以前とは全く違う生活に。
木曜日に東京に戻ってすぐに送別会に出席。
このときに何がつらいって、お酒飲めないこと。だってお酒大好きなんだもん。
ちょっとだけと思ってグラスに手を伸ばしたが、女性陣から駄目ですとつれない返事。
あー会社で言わなければよかった。
ちなみに、なぜお酒を飲んではいけないかというと、血行がよくなって目が充血するからだそうです。
土曜日は、部下の結婚式。
乾杯の音頭を取らなければならないということで、練習をしていきましたが、上がってしまい今一。
でも今日で1週間過ぎたとばかりに、飲んじゃいましたよ。
まあ問題はありませんでしたので、大丈夫だったのでしょう。
月曜日に、1週間検診を受けても、異常なしということで、大成功というところでしょうか。

レーシックを受けちゃいました~翌日編

実は手術日から3日間、子供たちのミニバスの合宿に奥様も引率動向のため家には誰もいない状態。
手術を受けた日は、眼もなんとなく見えないし、ビールも飲んではだめ、お風呂もだめということで、特にやることもなく、ほか弁を食べた後、ボーッとしていました。
しかし、4時間は寝ないで、眼が乾かないように目薬をさし続けるように とのことで寝るわけにも行かず、手持ち無沙汰。それでも、11時過ぎにはベッドへ。
寝るときには、ウルトラマンの眼のようなプラスチックの保護具をテープで顔に貼ってなんか他人が見たら笑っちゃいそうな格好でした。
翌日は7時ごろに目覚め保護具をバリバリと外すと、眼が乾いているので、即目薬。
すると、ナッなんと見えるではないか。
結構見えるぞ。
まだまばたきがうまくできないのと、手術後のドライアイ症状で、眼がパリパリという感じだが見える、見える。
昼間は、家に誰もいないし暑いので、パチンコにでもと 出かけた。
画面は見つめないようにしたが、結構出た出た。
眼も見える、パチンコも勝った。といいこと尽くめ。
翌日検診は夕方から。
術後検診は、検査や手術の場所ではなく、近くの別院ということだったが、ああそういうことか!?
検査や手術の時には、ものすごくゆったりとした院内に、カウンセラーや看護婦さんもなんとなく美男美女。(ちなみに後で考えると、男性患者には美女の看護婦さん、女性患者には美男の看護師さんがついていたような気もしてきた。)
支払い済ませたら、あとは普通の眼科医と同じなんだな。
視力検査をでは、なんと右目1.5、左目2.0になっちゃった。
昨日まで右目0.07、左目0.08、しかも左目は乱視がきついですね。なんていわれていたのに。
1週間の禁酒と目薬の指示をもらい、喜んで帰宅。
眼が見える。
月のウサギが肉眼で見える。
しかも夜でもはっきりとネオンが見える。
これはばっちりだ。

レーシックを受けちゃいました~手術編

そんなこんなで、手術日当日。
再び会社を早退し、やや早めにクリニックへ。
この日も先ず 手術前の検査から。
先日の検査と同じような検査を1時間ほど。
その後、問診で、今日手術できますよと先生が。
(あれこの人どこかで見たことが・・・ああ、ネットで調べたときに出ていた院長先生だ。結構若そうだぞ)
その後、手術前に会計をということで、支払いを済ませ、同意書にサインしてきましたか?とアッ。忘れた。といったら母音を押させられた。その後少々お待ちくださいと。
待合室で待つこと小1時間。
順番忘れられちゃったのかな?なんて思っていると呼び出しが。
先ず最初にフラップという眼球表面の膜を作るために、1回目のレーザーが。
手術室に導かれ手術台に横になるようにとの指示。
看護婦さん(?)とレーザー技師のような人はいるが、医者がいないじゃないか!?
とりあえず横になると、頭の上から先生らしき人の声が。
ああやっぱり執刀医は、後からうやうやしく入ってくるんだななんて思っているとまぶたを閉じないための器具をつけます。と言うなり右目の回りに何か枠のようなものをはめ、「吸引開始!?」実はこれが結構痛い。眼の周りをぐっと抑えられ、目の前が
真っ暗に。
その後レーザー照射が始まったのかウィーンという音とともに、レーザー技師の照射時間「58秒です」という掛け声。
その後「残り30秒」「残り10秒」「照射完了」と技師の声。
この間に先生は、「はいうまく言っています。」「順調です。」「綺麗にできています。」
と暗示のように耳元でささやいていましたが、何かしていたのでしょうか?
さらに同じことを左目も。
実際、レーザーは両方で2分弱。
照射が終わると、先生はさっさと引きあげてしまった。
看護婦さんに次はこちらです。と促される。その間瞬きは大丈夫なのだろうかと心配しながらも、目の前が白く濁って視界がぼやける中、先ほどのまぶたを押さえる器具の痛さによくわからないまま、次の部屋へ。
こちらの手術台は先ほどより少し仰々しい機械がついているような気がしたが、視界がぼやけてよくわからないまま横になる。
すると両手にお手玉のようなものを渡され、握り玉で落ち着いてくださいと。
先ほどと同じ先生の声は、やはり後から入ってきた。
こちらの機械でもやはりまぶたを抑えられるが、先ほどよりは痛くないみたい。
でも先ほどのイメージがあり、ワ~またかって感じ。
器具装着後、フラップをめくるピンセット(初回検査のときにどうやってフラップをめくるのか聞いていた)の影がボヤッと見えたが恐怖心はなかった。
今度の機械では、技師が「照射時間18秒」といった後、「50%」、「80%」、「100%」「完了です」と。
その間やはり先生は、先ほどと同じように暗示のようなささやき。
先ほどと違ったのは、レーザー照射時に細胞の焦げる匂いとそれを吹き飛ばすかのようなエアーの吹きつけがあった。
また今回は、レーザ照射後、フラップを元に戻し、眼に貼り付けるために、なにかヘラのようなもので眼の表面を整える様子がボヤッと見えた。
引き続き左目。左目の方が視力が低く、乱視も合ったため照射時間が違うのかと思ったがこちらも先ほどと同様。ただ違ったのは、レーザー照射後、きっとうまくフラップを戻せなかったのではないかと思うのだが、3回ほどヘラで延ばす作業と、もう一度フラップをめくりなおしているような動きがあった。
それでも、全工程、待ち時間も入れて僅か15分程度の手術は無事終了し、待機室へ。
ここは薄暗い部屋にリラックスできる椅子が置かれ、20分ゆっくりしていてくださいと。
たまにまばたきして、眼が乾かないようにとの注意があっただけで、あとは静かに待っているだけ。
この部屋には3~4人分の椅子があるよう(カーテンで仕切られている)で、入れ替わり入ってくる人、先生に呼ばれ、術後の確認のあと出て行く人がいた。
待つこと約20分。先生に呼ばれ、術後確認。先生はやっぱり院長先生だ。手術のときの声も同じだったので、担当医が院長先生だったのだろう。
「今はボヤッとしていますが、明日にははっきり見えてきます。」と心強いお言葉が。
その後、目薬と注意事項をカウンセラーから聞き、サングラスをもらった。
あとは勝手に帰って良いらしい。
外に出るとすぐに会社に電話し、このまま帰るよと一言。
みんなからどうだった?と聞かれ、今わぼやけているとだけ。
電車の中では、まだ先ほどの器具による痛みから、眼をうまく開けられず、半分寝ぼけたような状態で、最寄り駅まで1時間。
到着頃には、なんとか眼が開く状態になっていたが、このとき既にメガネ、コンタクトなしでも自転車に乗れるぐらい見えていた。(夜8時過ぎの暗い中でも)