今日は風邪にかこつけて、会社をお休み。
自分的には理不尽な要求とヒステリックな上司に対するストライキといったところ。
とはいっても、咳と鼻水に加え、頭痛もあって風邪ではあるのですが・・・。
仕事に熱中しているときならこのくらいなんともないと、出て行っていたのですが、ここ最近の傾向としては、ちょっとのことでもお休みしてしまうようになって来たかな?(それでも他人に比べると休まないほうだと思うのですが)
ということで、1日家にいたのですが、夕方近所に住む、おじいちゃん(義父)のところまで、犬の散歩がてら夕ご飯を届けに行ったときに、なんとなく小一時間二人でだべっていたときの話。
明日は開戦記念日だよね。というところから始まり、おじいちゃんの昔話を聞くことが出来た。
おじいちゃん戦争が始まった頃は広島の市外で中学生から高校生の時代だったということで、結構いろんなことを覚えている。
開戦の日はラジオで、「大日本帝国海軍は、太平洋地域で戦闘状態に入る」と言った内容の放送とともに、開戦が知らされたとか。
当時は、昼間は電気が来ていなくて、夜ラジオを聴いたような気がする。ラジオは自分の家にあった。など断片的ではあるがいろいろなことを話してくれた。
そんな中で、広島と言う場所柄、何と戦艦大和の実物を見たことがあると言う話しにはびっくり。瀬戸内海をゆっくりと出撃して行った姿は、まるで山のようだったと、歴史の本に書いてあるとおりの証言。瀬戸内海では大和はスピードを出せなかったんだそうな。と言うのもあまりにも大きすぎて、全速で航行すると、波が瀬戸内の島々を飲み込んでしまうからと教えられたと言っていた。
ほかにも軍需工場への学徒動員でした仕事についても語ってくれた。
3mほどの鉄の棒に、カンナで削ったような薄い木のシートを螺旋状に巻き、紙やすりできれいに削り、糊を塗ったら反対巻きにまたシートを貼り付ける。これを3~4回繰り返し、芯の棒を抜く。出来上がったストローの木の筒が、戦闘機の燃料パイプになったんだとか。
木と糊で燃料パイプを作っていたなんていう話も、おじいちゃんからでなければ絶対に聞けなかった話。
この仕事では、3時になるとひとり1個のおにぎりがおやつに出たが、先輩は学生ながらタバコを吸うので、自分たちの分を下級生に分けてくれたそうだ。
米がない時代だったが、最後まで握り飯のおやつが出たらしい。
また金属が徴収されるにおよび、仕事に行くのに通っていた端の欄干がある日取り払われていたので、危ないから竹で両側に手すりをつけたなんていうこともあったらしい。
自分の親は戦中生まれのため、生々しい記憶はほとんどなく、戦後の貧しさについては、いくつか幼少の記憶を引き出して話してくれることがあったが、今となっては貴重な話を聞けることはなかった。
語り継がなければなどということがよく言われるが、そもそも語ってくれる人がもう身近にいなくなってきている。
家に帰って、今日聞いた話をもちろん子供たちにもしたが、同時に今度おじいちゃんに、大和ってどんなだったと聞いてごらんと夕食のときに話したのは言うまでもない。